2020年の1111
11月11日はポッキーの日とかNAILの日とか色々ありますが
私にとって11月11日はもう何年も
何でもいいから内容の濃い意味のある日にする
ボヤボヤして生活しない満喫する日
としています。
そんな訳で2020年の11月11日は
気学を一緒に学んでいる全国の仲間が30人ほど集まって
京都でとても濃い一日を過ごしました。
私は神事をお勉強していた頃から京都や奈良の神社に良く参拝にいきましたが
行くのは神社ばかりで寺院にはほぼ行っていません。
日本には古い歴史のある建造物が沢山あるのに
神仏に対して私の中でジャッジがあったのかもしれません。
寺院は自分の家が檀家である所以外は行くものではないと思っていましたので
京都へ出向いても神社しか参拝していなかったので
狭い世界で生きていたのだなと感じました。
今回訪れたのは主に大徳寺さん
無知な私は大徳寺さんを知りませんでした。
恥ずかしいなぁとも思いましたが
知れてよかったと嬉しいきもちとなりました。
お昼頃に集合で大徳寺さんのすぐ近くにある一久さんで
精進料理を頂きました。
私、その前日の夜から猛烈にお腹の具合が悪くなり
…悪くなりといっても、ピーちゃんな訳ではなく
気持ちが悪く胃が重く胃腸が緊張している感じで。
朝も何も食べずに参加しました。
いつもなら吉方位取りをして出かけますが
この日はなんと、岩倉駅が吉方位で
その後着く名古屋駅も吉方位
そして京都駅周辺も吉方位
という事で、方位取りを兼ねての日帰りの旅という事で
朝もゆっくり出来ました。
そんなお腹いたい子状態でしたが
いつものようにアロマを使ってもよくならないので
あーこれは私、人見知りだで緊張しとるんだな。
と思い、そこを認識したら随分ラクになりました。
念のため、漢方を一服飲んでみましたが
出掛ける頃になり、お腹の痛いのも飛んでいきました。
電車にのりながらも思う事は
やはりお友達がいるわけでもなく知らない方々との一日だから
楽しく一日過ごせるのだろうかという心配な気持ちと
どんな一日になるのだろうかというわくわくする気持ち
それから致命的な方向音痴なので
乗り換えで行った事ない所だで
ちゃんと着けるかな~という不安もありました。
そういう緊張しぃな所が
ぽんぽん痛いっていう事につながっていました。
ここはいくつになっても課題です。
そんな心配はどこへやら
迷う事なく到着しましたが、一久さんではどこへ座ろうかと思っていましたら
よかったらここへどうぞ^^
と、声をかけてくださった優しい女性が。
お言葉に甘えて隣に座りましたら
「私は二黒のMです。熊本から来ています。」
と気さくに話しかけて下さいました。
「初めまして、本命五黄・月命八白のゆみです。」
と、皆さんで自分の本命月命と最大吉方を伝えあって
気学やっていない人からは意味不明な自己紹介をしあいました。
私に声をかけて下さった二黒のMさんは
私にとっても最最大吉方な人ですし
二黒の人はやっぱり優しい。
お互いに私は八白だよとか七赤なのとか
そういう星を伝えあう事で
こういうタイプの人なんだなと理解しやすくて
打ち解けるのも早かったなと感じました。
精進料理は、朝までぽんぽん痛子だった私には
とてもやさしくてありがたかったです。
そしてでっかい松茸入りのお吸い物と炊き込みご飯
とっても美味しかったです。
大徳寺さんでは大徳寺納豆というのが有名なようで
私も頂きましたがとても美味しかったです。
赤味噌文化の私には合っているようですが
買っている時間がありませんでした。残念。
そして食事が終わってからは大徳寺さんの中を見学や参拝してまわりました。
苔が好きなので(育てたりしてないけど)
ふっさふさのスギゴケがすごい元気で嬉しくなりました。
紅葉はあと一歩と言う感じでもう少ししたら見ごろだと思います。
総見院では秀吉が信長を弔う為に建立したお寺だそうで
社会の教科書にきっと出てきたであろう信長公の木像が祀られていました。
思っていたよりちいさかったですが、目が力強かったです。
織田家の墓所も見学しましたがとてもきれいに整備されていて
お墓か…と思ったけど全然重苦しくなかったです。
なんちゅーか、受け取り手側の気持ちも変わると
こうも違うのかと思いました。
聚光院では狩野永徳と松栄の障壁画が46面もおさめられていて
レプリカではありますが、本物と遜色ないそうで見ごたえも十分でした。
千利休の好んだお茶室も見学しました。
沢山素敵な日本の歴史感じる物を見学しましたが
写真NGの所が多くてほとんど残せていないのが残念です。
(↑このお抹茶は一久さんでのお茶。陶々舎さんではありません。
陶々舎さんでは写真を撮れなかったのでこちらの写真で…)
その後は少し移動して陶々舎さんでお茶を頂戴しました。
そのお茶席での時間がまた何とも言えない異空間のような感じで
日がもう傾きつつあったのですが
薄暗い中でも電気をつけない茶室の空間は
とても心地のよい時間でした。
お茶席というと正座をしておごそかに…
と言う感じがしますが、こちらでは無理のないように
足を崩しても大丈夫という緩い感じで
お茶やお菓子の頂き方も教えては下さるけれど
それに捉われずにご自由にという感じで
お茶にあまり触れた事のない方でも
気負いせずお点前を頂けるなと思いました。
お茶は私が小学4年生の時に姉が習いに行くついでに私も一緒に習いました。
その時は習い始めた動機は非常に不順で
お饅頭を毎週食べられるのが楽しみだな♥
という気持ちで通い始めました。
動機が不純なので、一生懸命覚えようなんて気が全くない子でしたけど
お茶の先生は辛抱強く季節毎のお点前を私に教えて下さいました。
お茶の作法ってひとつひとつに意味があって
どうぐひとつとってもお茶を点てる亭主の心遣いの現れで
しらなければさっと過ぎてしまうような事でさえも
相手の事をおもいやる心の連続で成り立っているのだなぁと
あれからもう30年も経ちましたが
今になってそれを思い知る事が出来て。
今回のお茶会で子供の頃の私が経験し見た事が
やっと線になってつながったような感覚というか
上手く表せませんがとても深い所で満ちた満足感がありました。
どんな事も人生に無駄なんてものはなくて
その先の私を助ける事にもつながるのだと。
あんな不順な動機だった私にも
お茶を習いに行かせてくれた母に感謝を強く思ったのでした。
お茶席の後は大慈院さんで座禅体験でした。
座禅というと正座をして修行の時間と言う感じかと思っていましたが
和尚さまがとても気さくな方でお話がとても楽しかったです。
深い呼吸をする為のストレッチ方法などを教えて頂きながら
あれこれ実践していたら深くラクに呼吸できるようになりました。
そして座禅は横になっての座禅を経験。
座ってやるものかと思っていたので意外な感じでした。
その横になっての座禅の時に和尚さまが
般若心経の解釈を詩のような感じで言われました。
それがとても耳に心地よくて
どんどん引き込まれていくような感じでした。
私は小4と中1の時に春休みを利用して四国八十八か所参りをした事があり
巡礼の前には写経をしたりもしました。
その時は意味わからんと思いながらやったりもしましたし
最初から好き好んでやり遂げていた訳ではありませんでした。
でも何度も書いているうちに般若心経を覚え
同じ言葉が出てくるのが不思議だなとか
どういう意味なのかなと思いながら書きました。
大人になってからも、時々書きたくなったら写経していましたが
家の近くにはお納経を受け取って下さるお寺さんがなく、持て余してしまうので
最近は出来ずにいたことを思い出しました。
和尚さまが詩のように流れるように話される般若心経は
私が今まで思っていた般若心経とは違っていて
とても軽やかで心地よく
それでいて核心をついている般若心経でした。
般若心経を読む宗派は沢山ありますが
どの宗派のどれが正しいという事ではなくて
どの解釈も自分が心地よい物ならそれでいいのだと
もっともっと物事の受け取り方を軽く軽くしていっていいんだと
なんだかうまく言えないけどとても心が楽に軽くなる学びでした。
外にでるとすっかり夜になっていて
最後のお楽しみの祇園の街へ行きました。
舞妓さんや芸妓さんはお一人お呼びするだけでも諭吉さんが多く飛んでいきます。
そして一見さんはお断りという格式高い世界だというのは有名な話ですが
今回は気学の師匠が漢気あふれ愛にあふれる方なので
参加者の皆さんへのプレゼントという事で舞妓さんと芸妓さんそして師匠の三味線の先生でもある方をお座敷に呼んでくださっていました。
普通に生きていたら関わる事のない世界です。
とても可愛くてきれいな舞妓さんたちを、まるでストーカーよろしくガン見しまくって
一挙手一投足を目で追う怪しい人になって見てしまいました。
ある程度の時間が経つと場所を移動して下さって、3人の舞妓さん芸妓さんと沢山お話を楽しませてもらえました。
芸妓さんたちが居ない時には、近くに座った気学仲間の方々と気学トークが炸裂。
皆で色々な意見交換をして、またより一層気学の事が好きになりました。
前日の夜から朝まで色々と緊張したり不安になったりしてた結果がお腹痛子になって表れていましたが、そんな心配は本当に必要なくて気付いたら沢山の方々と大笑いしながらすごく楽しく後ろ髪引かれるような思いで帰路につきました。
沢山のお仲間と楽しい時間を過ごせ
その時間の中で様々な気付きや過去の自分の経験の点が線になってつながったり
非常に学びや気付きの多い時間でした。
そして師匠には漢気あふれる素晴らしい時間の贈り物を頂き
本当に幸せなひとときでした♥感謝